可愛く生きられないというコンプレックス
この“可愛い”ってすごく伝えるのが難しいのだけど
純粋な、とか無邪気な、とかそういうものに言い換えられるのかな
好きなグループの好きな動画って決まってメンバーみんながわちゃわちゃしてるもので
そういうのを見ていると、“可愛い”って思うんですよね
無邪気で心から楽しんで笑っていて、はしゃいでいて
自分にはきっと一生手に入れられない要素だと思っていて
人にもよく言われるし、私もすごく感じているけど、私って人生何回目なん?って思うんですよね
賢いとかそういうことではなくて、一回、といわず何回も、人生生きてきたやろ?っていうような
夢は見ているし目標もあるけど、全てにおいてある一定の諦めを持っていて
擦れた人間だろうなって、言われるし自分でも思っています
人間はいつか死ぬし、1日は24時間でその中で活動できる時間も決まっていて
自分の出来うる範囲から手を伸ばして、何とか届くかもしれないものが目標で届くか届かないかの境にあるのが夢だと思っているので、手を伸ばしたって届きようもない夢は持たないんですよね
具体的なことを言うのであれば、ステージに立ってパフォーマンスしている人たちは本当にかっこいい、羨ましいと思うけど、自分には決して出来ないから、やりたいとは思わない、そういう感覚で
どこまでが自分の見られる景色なのか、限られたものや時間の中でどう生きるかどう表現するか、と考えているので
この言葉が正解かどうかは分からないけど、私の考え方は諦めから始まっているのだと思います
ここでちょっと過激派発言を挟ませてもらうと
大人たちって子供に「可能性は無限大だよ!」って言葉をかけている印象があるんだけど、それってすごく無責任では?と思っていて
何も見えない暗闇に道しるべもなく放り出すような、そんな感覚がする
「あなたは〇〇が上手いから〇〇の才能もあると思う」という言葉が呪いになってしまうかもしれないからという考えなのかもしれないけど、私はそれよりもずっと無限大だと言われることの方が無責任だと思う
その上に、夢を見つけろ進路を決めろと言われる時期もあって
待って?可能性は無限大なのではなかった?無限大なら私は今頃ステージに立って輝くアーティストになれたかもしれないし、親がお金を持っていて一生困らないのでニートで大丈夫です!という人生を送れたかもしれないし、山のような選択肢を選び切ることなんて出来ないはずですが?と思うんですよね
好きなものだけでなく自分が持っているもの、頑張れば身につけることができるかもしれないものとそうではないものを考えることで初めて選択することができるはずだから
諦めってマイナスな言葉って思われているけどそうではなくて
諦めるからこそ自分の夢や目標の輪郭をはっきりさせることができると思っていて
私はいつか死ぬし、自分を作品として表現して生きていくことはできないと諦めた瞬間から、じゃあ限られた人生に何をして生きたいのか、どうやって表現したいのかを考えることができたから
擦れた人間だからこそ、不器用なくらい素直で、まっすぐな人が眩しく見えて好きなのかもしれないなって
でも自分が言葉やいろんなもので傷つけられてきたからこそ私は傷付けないようにしたいと思うから、いつだって大事な人にはまっすぐに向き合うし、嘘なく素直でいたくて、そうやって考え込みすぎて臆病にもなるし不器用で
この部分を無くしてしまったら私はきっと人間じゃなくなりそうだな
”可愛い“生き方をしている人を見るたびに、人生楽しそうで眩しくて羨ましいな、と思うくらいにはこの性格はコンプレックスで
見た目とかは可愛くしようと努力できるけど中身は変えられないし、自分は自分にしかなり得ないから仕方ない!と諦めて
だからこそ私は生きているし、私だけの夢を持って生きているんだとコンプレックスを抱えながら日々もがいています。
総じて考えすぎやねんな。わかる。